2010年12月9日木曜日

突然の別れ

そういえば僕が社会人になった12年前も
超就職氷河期といわれてた.
僕は,農学部で農薬の研究室に所属し
カビを培養する研究をしてたにもかかわらず
電子部品を製造するメーカーに就職を決めた.

大学時代,
留年してしまったぐらい
全くマジメに勉学をやらなかったので
専門でまともな就職先はなかったのだけど
中学生の時から趣味で遊んでいたコンピュータの知識が
就職難の時代に僕を助けてくれたのだった.

入社式のあった4月1日からゴールデンウイーク頃まで
関東周辺にてグループ会社合同の新人研修が続き,
エンジニアの仕事場となる工場に配属されたのは
ゴールデンウイーク開け.

僕は,希望がかなって盛岡工場に配属となった.

それから さらに半年間,
製造ラインに立っての実習.
ラインのおばちゃまたちに揉まれ
ようやく開発の現場に配属されたのは
9月の半ばを過ぎていたと思う.

期待して配属された開発の現場だったが,
僕に与えられた最初の仕事は,評価作業.
先輩たちの設計したプリンタメカが
期待通りの性能を持っているのかを
様々な温度環境で確認するという仕事.

「チャンバー」と呼ばれる-45度から85度まで
温度を調整できる部屋に入り,
評価作業をしレポートにまとめる日々.
特に辛いのは湿度のかかった試験.
気温30度+湿度90%とか.

先輩社員の指示する評価メニューを
こなすだけの毎日が3ヶ月ほど続いた.

いい加減,会社が嫌になったころ,
僕はモバイルプリンタの開発チームに加えられ,
ヒョロッとした感じの,
朝には決まって酒臭い気がする
大先輩エンジニアのOさんと出会った.

Oさんは,熊本出身の九州男児.
口数は少ないが,言葉に重みのある人だった.

ある時,
「僕は何すればいいですか?」って
Oさんに聞いた時があった.

下っ端根性の染み付いた僕にとっては,
当然の質問だったのだが,
Oさんは,なんだか呆れた表情.

ぶっきらぼうに言い放った
あの言葉が今でも忘れられない.

「仕事は自分で作れ」

シチュエーションとしては,
怒られたはずなのだけど
不思議にも僕は,この時
悪い気持ちがしなかった.
むしろ,やっと自分で考える自由を
許されたという安堵を覚えた.

Oさんとは,僕がこの会社をやめるまで
ずっと同じチームだった.

いつもズバッと率直な事を言ってたOさん.
製品開発の幅広い分野に深い知識を持っていた.

問題が起こった時も
じたばたしがちな開発チームの中で

「やるしかないだろ」

って真っ先に腰をあげる人がOさん.

そして,いつも飾らないOさんの,
さりげない気遣いが温かかった

8年前,僕が会社を辞めて,
会社の同僚とちっぽけな会社を始めた時から
ずーっと,時折,Oさんは電話をかけてきては
「元気かあ.忙しくしているか?」と
電話してきたり,
「おい,〇〇部品の在庫あるか?」って
突然電話してきて,
ものを借りに来ることを口実に
ちゃんと食えているか
様子を見に来てくれたこともあった

そんなOさんから今年の8月ころ
今思えば妙な電話が来た.

「ものすごく暇なところにいるんだけど」
「暇潰せる何か面白いこと無いか?」

どこにいるのか聞いても
笑ってごまかすだけでOさんは
居場所を言わない.

僕はいつもの調子で,
製品トラブルを解決しに
客先へ飛んだけど
早めに解決して
暇を持て余しているのだろうと
そう思い込んだ.

勘の悪い自分に今呆れている.



2週間前.
僕は思いもよらぬ話を人から聞いた.

Oさんが癌で入院しているというのだ.

皆に心配をかけまいとOさんは
入院を隠していたと後で知った.
あっさり完治して何事もなかったように
職場復帰するつもりだったのだと思う

すぐにお見舞いに出かけようかと
気がはやるのをこらえ
僕はタイミングをうかがうつもりでいた.

そして,今週の月曜日の昼頃.
僕のケータイが鳴った.

ディスプレーには,Oさんの名前が.
呼吸を整えてから電話に出た.
少しかすれ気味のOさんの声.

「あのさ,おれ癌で入院しているんだけど,
 これまで医者に任せていたんだけど,
 大分悪いんだ.
 癌を克服した先輩とか
 たくさんいるから
 連絡取りたいんだけど
 携帯のメールは
 もうできそうもないんだ.
 だから,ここで,病室で
 パソコンでネットできる方法を
 探してもらえないだろうか?」 

確かにOさんはそう言った.
僕はただならぬものを感じて.
電話を切った後,
急いで空いているノートPCを探して,
Windowsの動作チェックして
モバイル通信カードと準備をして,
Gmailのアカウントをとって,
諸々セットアップして
その日の夕方,医大病院へ車を走らせた.

教えてもらった病室の番号を
書いたメモを手に,
セットアップしたばかりのパソコンを
収めたかばんを肩にぶら下げ,
初めて入る医大の薄暗い廊下を急いだ.

病室の一番奥にOさんはいた.
Oさんの姿は苛酷な闘病の経過を
理解するのに十分だった

久しぶりのOさんとの会話.
Oさんは,やっぱり根っからのエンジニアで
Andoroidの次なる家電への応用について語ったりしながら,
闘病のため休んでいる会社の同僚への負担を気にしていた.

そして自分のことを冷静に捉えていた.

「その点滴は,痛み止めのモルヒネと栄養剤.
 もう延命治療しかないらしい.
 本当は,病院は,治療法の尽きたオレに
 もう退院して欲しいんじゃないかな」

Oさんはサラリと言った.

僕はなんと行っていいのか言葉も見つからない.
頷くこともできず,唇をかむことしかできなかった.

「でも諦めきれないんだ.
 癌に勝った先輩に連絡取りたいんだ.
 でも携帯は疲れるからもうだめなんだ.
 それでパソコン欲しかった.
 ありがとう」

胸が潰れそうになるのをこらえて,
別れ際,手を握って
「元気をだして」って言ったけど,
帰る廊下を歩きながら
もっと他の言葉があったのではないかとか
いろんな思考が僕の頭をグルグル空回りしてた.

助かる道がひらけますようにと祈ることしか
僕にはできないことが
心底くやしいと思った.



今朝,Oさんが天に召されたと連絡がきた.
まだ50歳代になったばかり.
Oさんは最後まで生きようと戦ってた.

最後に会った時,僕の挫折を聞いたOさんが
語ってくれた言葉が,僕に重く響いている.

「結果はどうあれ,
 論文には,まとめておけ.
 後に残る形にしておくことが大事だ」

これがOさんから僕への遺言となってしまった.
最後の最後まで僕は,先輩に指導して頂きました.

冥福を祈りながら涙がこらえきれない.

Oさん,さようなら.

2010年12月9日.
鎌田 智也