2011年10月31日月曜日

鳥肌の立つ場所

3ヶ月前から手書きで日記をつけるようになってから,
自宅でパソコンに向かう時間が惜しくなるようになってしまい
ただでさえ更新が滞りがちなブログの文章は,
ますますほったらかしが続いていたのだけれど,
久しぶりにキーボードで文章を書いてみたい気持ちが湧いてきた.

しかし,日曜日の23時35分という微妙な時間に書き始めた文章は,
導入部分で既に躓いている状況で,
しまいにはどうでもいいような気になって
途中で投げ出してしまいそう.

これをあなたが読んでいるということは,
そんな事が心に湧き怒りながらも,なんとかめげずに,
読んでもためにならない,書いても見返りもないこの文章を
私がなんとか書き終えたということを意味しているのです.

今日は,夜になってから雨が降ったのか,外からは
雨だれの音がボツボツとこだまして低い音が響いており,
途切れなく続くその音は聞く耳を休ませることを許してくれません.
温かい家の中にいて外の雨だれを聞くことは,
外の寒さを想像する余裕を私に与え,
幸せを感じさせてくれる瞬間でもあります.

今日は,鳥肌がたつ経験をしました.
大げさかもしれませんが身の毛もよだつという表現が私にはぴったりきます.
別に怪物を見たとか何か恐ろしいものを見たという事ではないのですが,
何かの存在を私は感じました.
37年間生きてきて記憶にあるかぎりあまり経験のないことです.
このことについて書いてみましょう.

週末に私はドライブへ田沢湖まで出かけることがよくあります.
私の住んでいる盛岡近郊から田沢湖までは車で1時間程度で行くことができ,
風景も綺麗でドライブにはちょうどいい場所です.
私がよく出かけるのは田沢湖の南側にある「秋田県民の森」か,
あるいは西側にある「かたまえ山森林公園」,
東側の田沢湖高原の温泉地あたりです.
特に県民の森とかたまえ山森林公園は共に少し小高い場所にあって
田沢湖を一望できる散歩にはもってこいの場所です.
かたまえ山森林公園には滑り台などの遊具もあり,
いつ行っても空いているので,3歳と6歳の子供たちがいる
私たち家族にとってお気に入りの場所の1つとなっています.

今日も田沢湖に私たち家族は出かけていたわけですが,
たまには違うところへいってみようということで,
田沢湖の北側にある,鏡石に行ってみることにしました.
田沢湖の周囲には湖岸を取り囲むように道路があって,
車で湖の全周へアクセスできます.
今は紅葉の時期で田沢湖周辺を走る車がいつもより多いようでした.


何度も田沢湖には出かけているのに,
この「鏡石」という場所は,まったく行ったことがありませんでした.

鏡石入り口にあるドライブインを兼ねたおみやげ屋さんの駐車場に
車を停めて,矢印の案内に従って私たち家族は歩き始めました.
駐車場から鏡石までは,300mm程度の距離があって,
後半200mは,急な上り坂となっていました.
上り坂には丸太が埋め込まれた階段が作られていて,整備されています.

登る途中,3組の家族とすれ違いましたが,
私たちと同じタイミングで登る人達はおらず,
麓のドライブインにいた観光客の数とは対照的に
寂しい雰囲気の参道でした.

上り坂100mほど行ったところに「願橋」という木製の橋があり,
切り立った崖をつないでいました.
ふと見上げると「かなえる岩」という立て看板表示がついた巨石が
今にも落ちてきそうな格好でこちらを覗いていました.
6歳になる息子が走って願橋を渡ろうとしたのをたしなめた時,
橋の手すりを見るとたくさんの願いことが書き込みされてありました.
きっと地元の民間信仰みたいなものがあるのでしょう.
家族の病気が回復するようにとか試験に受かりますようにとか
ところ狭しとマジックやボールペンで書きこまれていました.
願橋から更に100mの急な上り坂を,3歳になる娘を抱えながら,
私たち家族は散歩を楽しんていました.
息子も階段の脇にどんぐりを見つけては,これは大きいだとか
あれは虫が食べた穴があるとか言いながら集めていました.

残り100mの坂は中間地点にちょっとした踊り場みたいな
場所があってそこから少し「く」の字に曲がっていて,
前半50m以下の地点からは直接上が見えないようになっていました.
その踊場について一息つく間もなく上を見上げると,
なんだか私は違和感を覚えていました.
うまく言葉では言い表せませんが,薄気味悪いと言うかなんというか.
しかし,急な坂を途中まで登ってきた労苦を思うと,
どうしても達成感を得たいという意識が働き,
不安な気持ちは,直ぐに薄らいでしまい,そのまま私たちは上りました.

上り坂の「終着点」は,木製の展望台のような作りになっていて,
45度くらいの階段が15段くらいありました.
階段を登りきって私の視線に入ったのは.お金でした.
展望台の手すりは,木の丸太で作られているのですが,
割れた隙間にはビッシリと5円とか1円硬貨が差し込んであって,
手すりには触れられない状態でした.
その手すりを支える柱の部分には所狭しと願いことが書きこまれています.
願橋にあった願い事よりもより多くのことが小さな字で書きこまれていました.
癌が治りますようにという言葉がいくつも目に止まりました.
死期を悟った人が家族への思いをかたどったであろう言葉もありました.

そこから20m程度はなれた断崖に「鏡石」はありました.
すこし風化したしめ縄がとりつけられており,石の表面は
苔で覆われているのが見えました.
私は特に感慨もなく,今度は登ってきた坂道を下る労苦を思って
うんざりした気分になっていました.
3m四方程度の展望台のようなスペースには,
私たち家族しかいなくて登ってくる人達もいません.

6歳の息子が早く帰ろうというので,一休みもそこそこに
展望台の階段を下り始めました.
すると,私の後ろから何かの気配を感じるのです.
はじめはその気配も気のせいだと思っていましたが,
今度はだんだん,体の表面がゾクゾクとして鳥肌がたってきます.
私は3歳の娘の抱っこしながら階段を一歩づつゆっくりと
下っていきますが,背後の存在感の大きさに耐えかねては,
振り返って後ろを見つめました.

しかし,なにも居ません.

ところが何も見えませんが,何かがそこに存在する気配を感じるのです.
振り返って見たときに見えない存在は,隠れることもせずその場所から
こちらを伺っているそんな具合です.
気持ち悪さを一人でやりすごすことができなくて
私は横を歩くかみさんに話しかけました.

「誰か居るような気がしたけど気のせいだよな」と.

カミサンは,そっと囁くように「私はさっきから鳥肌が立ってる」と
言うではありませんか.

「きっとこういうふうに祀ってあって,入り口にも鳥居があったのも
理由があるんじゃない」と続けて言いました.

その間も私は,私達に近づいてくるような背後の気配を背に,
何度も振り返っては何も見えないことを確認することを繰り返しました.
50m下った「く」の字の踊り場地点に降りてきたら,
急に気配は消えました.

何かを見たわけでもないのに,私に存在するという
感覚をもたらした情報は一体何だったのでしょう.
少なくともあの場所は,自分にとって容易に近づけない場所になりました.
行ったことのある人で似たような経験をした人はいるのでしょうか.

では,おやすみなさい