2010年10月29日金曜日

言葉と記憶

目を閉じながら
今日あったことを振り返ると
言葉にならない風景が
子供のときよりも
色あせてきたことに
気づいたのです.

言葉になって思考した
あの時を思い出せても
あの時,自分が何を感じて見ていたいのか?
どんな味の飲み物を飲んでいたのか?
昼の食事の匂いはどんなものであったのか?
感覚的な記憶のリアリティーが
明らかに子供のときよりも
落ちていると思うのです.

それはまるで現実に直接手で触れた経験があるのに
記憶の中ではテレビを見ただけみたいな
安ぽいものに化けてしまっているようなもの.

だから脳みそは
「そんなチープな記憶は消してしまえ」と
記憶を消していくのではないでしょうか.

有名な学者が言っていました.
「楽しい人生を歩むコツは上手に忘れることだ」と

もし記憶が感覚的なものだけで
構成されているとするならば
記憶からリアリティーを消し去ればいい.

記憶の中の自分を客観視して,
幽体離脱したかのように
テレビドラマの主人公をみるつもりで
自分の記憶のドラマを
感覚的に眺めるのです.

そうすればその記憶は
リアリティーを急速に失って
チープな記憶となって
存在も失われていくはず.

でも実際に記憶を失うことは
そんなにたやすい事ではありません.

なぜなら記憶の多くは感覚だけではなく
言葉になって脳裏に焼き付いていて,
その言葉は思い出されたとき,
まるで小説を開いて
ページをなぞったときのように
心のなかで再生され,
リアルな映像と感覚を
心に再び呼び起こすから.

だから言葉と共に
心へと刻まれた思い出は,
離れることはないのでしょう.

生き続ける限り
僕らの心をいつまでも
揺さぶり続けるのです.

言葉にならない風景が
幼いとき生きた記憶の世界を
支配しているのなら,
大人になった僕の記憶を支配するのは,
言葉の記憶なんだろう.

だから,もし心の言葉が失われることがあるならば
それは記憶の大部分を奪い去ることを意味するに違いない.

また,記憶のなかの言葉が
その時その人が生きた感覚を
呼び覚ますのだから,
その言葉を残したその人の心は,
その言葉を伝える人々の心に
生き続けているというのは本当なのだと

僕はそのことにも気付かされるのです

2010年10月26日火曜日

汲み取り式トイレと思い出

僕は汲み取り式トイレが死ぬほど嫌いです.

汲み取り式トイレ,通称「ボットントイレ」に
入るくらいなら,木の木陰でしたほうが
よっぽどましだと36歳のオッサンになった
今もマジで思っています.

物心付いた時から汲み取り式トイレに入ることは,
それは恐ろしくて用を足さねばならない緊急時に
どうしても周りに汲み取り式トイレしかない場合は,
まず外を見まわって,草の陰とか木の間など
隠れて用を足せる場所を探したものです.

大人になった今は,さすがにそんなことはできないので
汲み取り式トイレしか無い状況に陥ったら,
どんなに遠くても車などで水洗トイレのある場所まで
行くことでしょう.

そんな極度の汲み取り式トイレ恐怖症の僕が
小学生の低学年だった頃のこと

私の家族は地方都市の自衛隊官舎に住んでいました.

自衛隊の官舎は多少古くとも5階建てぐらいで
鉄筋コンクリートの建屋というのが多くて
水洗トイレぐらいは完備していたものです.

僕の家族が入居していた官舎も幸いにして
水洗トイレだったので自宅にいるかぎりは
問題ありませんでした.

大変だったのは夏休みや冬休みに長期間,
田舎の祖父母の家に遊びに行った時です.

私の両親の実家は,一方が秋田県山本郡八森町で
もう一方が北海道空知郡上富良野町でして,
30年ほど前は両方共に一般の家に水洗トイレが
全くと言っていいほど普及していない地域でした.

長期の休みの時に祖父母の家に遊びにいくことは
楽しみである反面,汲み取り式トイレをどうにかして
やり過ごさねばならず,その問題は幼い僕にとって
死活問題であったのです.

そんな僕の忘れられない思い出.

いつの夏だったのか詳しく思い出せませんが,
恐らく僕が小学校の1年生か2年生の頃だと思います.
当時,僕の家族は岩手県盛岡市に住んでいて,
小学校の夏休みに家族で北海道の祖父母の家に
遊びに行った時のこと.

僕は遊びに行った初日ぐらいは元気にしていたのだと
思いますが,たまに遊びにいく祖父母の家では,
次から次へとご馳走がでて絶えず食べ続けねばなりません.

食べたものはドンドン消化されます.
用をたしたくても汲み取りトイレ故に我慢する僕.

次第に我慢の限界が近づき青い顔をして
元気がなくなってきたのだと思います.

祖父母が心配してどうしたのか僕に訪ねました.
僕も幼いながらも恥ずかしくて理由をなかなか
言い出せませんでした.

特に祖父は,元警察官だけあって
体はガッチリとして声は大きく,
背は高く,いつも理屈っぽくて,
理由を知ったら怒られそうだと
僕は怯えていました.

しかし我慢も限界となり,ついに白状.

ぼっとんトイレが怖くて
トイレに行けなくて困ってたと知った祖父.
きっと情けないヤツだと思ったに違いありません.

でも祖父はおもむろにスコップを持って
100坪くらいある庭の一角に植えてあった
トウモロコシ畑の中央付近をこじんまりと円形に刈り取り,
真ん中にスコップで穴を堀って
トウモロコシ畑の外側までうねるような
S字の小道を作りました.

それは僕用のトイレでした.

汲み取り式トイレの人工的な穴はとても恐ろしいけど,
畑に掘られた30cm程度の土の穴はまったく
怖くもなんともありません.
自分が砂場で掘った穴みたいなものです.

そしてトウモロコシのおかげで
周りからは見えない,僕の最高のトイレでした.

喜んで用を足した僕.
孫が心底ホッとした様子を見て,
この時ばかりは祖父もニヤニヤしがら
うれしそうにしていました.

夏,トウモロコシ畑を見るたびにあのトイレが脳裏に蘇ります.

今は亡き祖父の温かな心を感じる僕の思い出です.

2010年10月24日日曜日

「愛燦燦」

「今」というのは,
この一瞬しかないから
儚いものだと思う.

「過去」と「未来」は,
儚い今とは対極的な存在であって
それはまるで大きな岩のように
どっしりとしていると思うのだ.

過去というのは,
時間をかけて
じっくりと思い出を
味わうことができるから
いつまでも眺めることのできる
安定感がある.

未来というのは,
希望を胸に抱き,
そして幼い我が子が
今よりも成長した姿が
必ずあるのだと信じる
幸せがある.

過去と未来の隔たりの間に
一瞬の「今」があって
今を生きるこの瞬間には
過去の私が
吉も悪しきも
積み上げてきた
その時々の私の存在があったから
今の私がある.

そして,鎖で縛られて
身動きできないという
錯覚に囚われながら
もがき苦しむ今があって
もし,この気だるさの壁を
乗り越えることができたなら
過去と未来を隔てる「今」が
過去と未来を断ち切る刃となるのだ

歳を取るたび過去達は
貧相な私の心に
自動的に溜まっていって
それは心を温めてくれたり
苦しめたりするのです.

ぶつぶつと ここまで書いていたら
小椋佳さんが作詞作曲した
「愛燦燦」の歌詞が心に浮かんできました

♪ああ 過去達は
♪優しく睫毛に憩う
♪人生って 不思議なものですね
♪ああ 未来達は 人待ち顔して微笑む
♪人生って 嬉しいものですね

まだ心の底から人生が嬉しいって
思えるほどの心に余裕はない
青二才なのだけど
「愛燦燦」みたいな曲が
自分の心を
温めてくれるようになったのだと
人生の折り返し地点にある私の
揺れる心を見つけた
満月の夜なのでした.

2010年10月23日土曜日

家電量販店におけるトキメキ感

出張の帰り駅に降り立ち,
さあ自宅方面へのバスに
乗ってまっすぐ帰ろうかなあと思ったのだけど
時間は まだ6時過ぎで,
ちょっと寄り道してみたくなった.

そこで,子供らが生まれてから
縁遠くなった家電量販店に
寄ってみることにしたのである.

盛岡駅から歩いて10分ほどにある大型店をめざす.

10月も21日となって6時過ぎにもなると
ほとんどくらい道.
空気はひんやりと気持ちがイイ.

道すがら盛岡駅裏の立派な空き地の向こうに
ライトで照らされた重機が見えた.
ちょっぴり絵になると思ったけど
カメラを取り出すほどではない.

そして比較的新しい家電量販店に程なくついた.

パソコンや映像機器などが置いてある
フロアを40分程度散策した.

僕は18歳で家を飛び出してからというもの,
時間があれば電気屋さんに足を運んだものだった.
なにが面白くてそんなことをしてたのか
今振り返ってみると,
商品を見て妄想を描いていたのだと思うのだ

電気屋さんに並ぶ商品をながめ,
心のなかでは,
「これがあれば面白いことができる」
とか
「これを使っている姿はきっとカッコいい」
とか
「これさえあれば自分の能力は皆よりアップできる」
など,
現実に購入したとしても必ずしも
そうなるものでもないのだが
商品を眺めながら心に沸き立つトキメキ感を
楽しんでいたいのだと思う

ところがである.
久しぶりに一人で電気屋さんを
40分も回ったにもかかわらず
そのトキメキ感は得られなかった.

これは自分にとって大きな驚きと発見であった.

年をとってつまんないオッサンになってしまった
ということだろうか.
きっとそれもあると思われるが,
それだけではないようだ.

40分回ってみて興味をかきたてられたのは
その値段.
製品の持っている機能がもたらす,
生活が豊かになるという期待感とかが
沸き上がってくることはほとんどなくて
ただ安いことだけが魅力になっているのだ.

これでは今買うともっと安くなりそうだから
買ってしまったら損をしそうな
気になってしまうじゃないか

それと家電量販店の売り方以外に,
値段そっちのけで欲しい製品分野というのが
無くなったと思う.

テレビ.デジカメ・ビデオカメラ・オーディオ・電子辞書・パソコン・ケータイ

カテゴリーはこれで固定化しちゃってるから
名前を見ただけで商品のもたらす効能が
イメージできちゃって
個々の製品の説明を読む必要もない.
デジタル化によって製品ごとの
性能もほぼ横並び状態だし.

だから 値段だけしか魅力になりえないのだろう.

おそよ40分間,お店の中をグルグルと
くまなく眺めた僕は,
さめた気分でお店をでた.

夕闇はさらに深まり,
空気はいっそう引き締まった感じがした.

バスに乗るため
再び盛岡駅に向けて歩きながら,

日本の電機メーカーは,
家電量販店がどこの製品カテゴリーに
並べたらいいのか
困るような製品を開発しないと
未来はないと確信した.

2010年10月22日金曜日

自転車操業

同じ人力でも歩くのと自転車では進むスピードが大きく違う.
徒歩で進み続けるには,
文字通り足を動かし
続けなければならないのに対し
自転車では惰性によって
足を止めてもある程度進むことができるから,
休みつつ移動できる.
だから徒歩は動き続けなければいけないという点において
自転車より楽ができないといえる.

ここまで書いておきながら,
こんなこと書くまでもないなと思うのだけど,
こんなことでも書かないでいると
ブログは永遠に放置されるままなので
書き続けるのである.

自転車にのっているとき
ペダルを動かす足を止めても
ある一定距離進むのは
慣性力によるものだ.

徒歩と自転車を比べたときに
楽ができるかどうかは
慣性力を利用しているか否かに
かかっていると言っていいだろう.

昨日の朝,道を走る自転車を見て
そんな当たり前のことを心に思いめぐらしていたら,
企業と個人事業との違いが,
徒歩と自転車の違いに似ていると思い
一人で妙に納得してた瞬間があった.

よく不安定な中小企業の経営状態を
自転車の歩みになぞらえて
自転車操業というけど,
個人事業者のように運営する人の数が
限られているような状況では
自転車のようにペダルを
こぐ足を休める余裕はない.

絶えず足を動かし続け
前に進み続けなければならないのが
現実の小企業・個人事業の経営の姿であろう.

自転車のように慣性力が働いて
多少休んでいても勝手に進んでくれる
余地がある企業というのは,
構成する人数の多い大企業であるといえる.

そして,たくさんの従業員が働いているところでは,
そのうち必ず働いていない社員がいるものだ.

童話に例えられるほど仕事熱心であると言われる
昆虫のアリでさえ,働きアリの3割は
常にサボっているらしい.

アリでさえそのような状況なのだから
大企業に務める社員の最低3割は
会社の利益に貢献することなく
遊んでいる状態であると見積もっても
さほど大きな誤りではないだろう.

そのような遊んでいる社員というのは,
大企業を自転車にたとえるならば
ペダルを漕ぐのをやめて
惰性で進んでいる状態と例えることもできよう.

とはいえ大企業だからといってその社員は
定年までずーっと会社の利益に
貢献せず遊んでいられるかというと
そんなこともないから,
そんな社員は査定が悪くて
そのうちリストラされるのがオチだ.

だから遊んでいる社員もしばらくすれば
いつの間にか会社の利益に貢献して,
そしてしばらく頑張って
またお休み状態になるサイクルを繰り返すことが多い.

企業で働くというスタイルは,
このように所属する組織の利益に
直接貢献している状態と,
利益には結びついていなくて
遊んでいるといっていい状態の
サイクルを繰り返すことができるという点において,
長い人生における遊びという名の余裕を持たせながら
前に進んでいける仕事のスタイルなのだと思うのだ.

ふらふらと歩道を進む自転車を眺めながら,
寝ぼけた頭でボンヤリと
そんなつまらないことを考えてた
昨日の朝だった.

2010年10月20日水曜日

努力と成長

「人に生まれたからには立派に生き続けるため
絶えず努力しなければいけない.」

これって小さい頃から心のなかに叩き込まれていて
努力すればいつかは必ず報われて
今よりきっとよくなると自分の深層心理は
固く信じているのです.

でもそれは単なる信念であって
生きる知恵であるにすぎないから
現実にはそうならなくて裏切られることも実際ある

努力して報われる社会の枠組みを用意することは
国家というスケールにおいて,
国民に幸せという利益を享受させるため
重要な政策課題であるに他ならない.

では努力して報われる社会を維持するため
国家は何を為すべきなのだろう.

努力して報われる状態というのは,
努力によってもたらされる成果が
自他共に進歩として認知される状態という視点で捉えるならば
努力する状況を取り巻く環境は,
程度が低いほうが都合がいいのは自明だ.
しかし継続的な努力による進歩は,
いつか飽和をもたらす.

それは多少の努力では進歩どころか
価値さえ産むのが難しい状態だ.

そして既に存在する価値は,人々に飽きられ
時間と共に猛烈な勢いで価値は
自動的に劣化していくから
現状を維持するためだけでも
多大な努力が必要な状態というのが
飽和した状態といえる.

国家が国民に努力して報われる社会を継続的に
提供するためには,この飽和した状態を打破する必要があるのだ

そのために国家は,一体どんな政策カードをもって
いるだろうか.

歴史と今の国家がとる政策を参考にすると
価値の飽和した状態をのりこえる方法は
次のいずれかの方策しか見つかっていないようにみえる.

(1)さらなる努力を促す
(2)価値を売り込む先の開拓
(3)既存価値の破壊

もっとも望ましいのは(1)さらなる努力によって
新たな成長手段や方向を得ること.
産業革命やエコ政策はこれに他ならないだろう.

しかし(1)は,発明や発見が必要だから現実に難しい
だから国家は(2)と(3)の方向性を探ることになる.

今アメリカは,ドルの量的緩和政策を進めているが
それは,努力せずに成長機会を得るための方策といえる.

自らの価値を低く貶めて,他の国家から見たときの
価値に対する対価を下げることによって
価値を売り込む先の開拓をしているのだ.
国家の中における価値を落とさずに
他の国家から見た時の価値を下げることは
平和的な方法で自らの既存価値を破壊しているといえる.
まさに(2)(3)を同時に行なうのが量的緩和政策なのだろう

でも量的緩和政策が成り立つのは,
自分以外の国家が同じ政策を行わない必要がある.

アメリカの中央銀行がじゃぶじゃぶドル紙幣を印刷して
みんなが簡単にドルをもらえる状態にしているから,
ドルの価値は今猛烈な勢いで下がってる.
そして相対的に他の通貨の価値が上がってる.

今,70円台に突入しそうな円とドルのレートを90円ぐらいに
戻してもらうためには,ドルの価値を上げてもらうか,
ドルと同じように一万円札をジャブジャブ印刷して
皆が簡単に円を稼げる状態にして
円の価値を下げるのかのいずれしか方法は無いのだけど
アメリカは自国民の努力が報われる社会を提供するため
ドルの価値を核心的に落としているのだから
日本が何もしなければ,しばらく円高は維持されるだろう.

僕たち日本人が努力して報われる環境を取り戻すには
どうしたらいいのだろう.
円の価値を落とすことも難しいし,
新たなる売り込み先といえども
日本の提供する価値への対価が高いからには
新興国に日本製品を売っても暮らしていけない.

結局のところ我々日本人に残された道は,
さらなる努力をすることだけなのだ.

先人の日本人が休まず働くアリに例えられたほどの
努力家であったことは疑いの余地がないだけに
それ以上の努力が今の我々に可能なのか
チョット自信がない.

2010年10月19日火曜日

子どもが生まれて5歳にもなると
色々な事柄に興味をもつようなる.

そして子供の発する何気ない言葉が時に
日常の中へ埋没した気づきを与えてくれる.

今朝,息子が「影はなんで追いかけてくるの」と言った.
「うーん.光があれば影ができるんだよ」
と自分は詰まりながら答えた.

息子はわかったかわからないか知らないが
そのあとだまった.

僕の中では,息子の影に対する質問がトリガーとなって,
最近の厳しい現実と「影」の話題が重なった.

「光があれば必ずそこには影がある」とか,
「光が強ければ影は濃くなる」など

なんだかなるほどなあと強いリアリティーを伴って実感されたのだ

5歳の息子との会話も,まんざら侮れないものだ

2010年10月1日金曜日

OpenCV2.1のめんどくさいヘッダーファイル群

2.1を使っていて不満なのは,cxcore.h cv.hをインクルードしたときに出る警告なのです.
コンパイルするたびに次の警告が表示されると肝心のエラーが下の方にスクロールアウトされてウザくなります.

#pragma message: Warning: "This is a deprecated opencv header provided for compatibility. Please include a header from a corresponding opencv module"

cxcore.hとcv.hは,過去のしがらみのためお情けで用意しているだけ.
さっさと,然るべきヘッダーをインクルードするように改めなさいということらしいです.
じゃあ何をインクルードすべきなのかというと,ドキュメントへの記載が見当たらない.
仕方ないので面倒くさいがcxcore.とcv.hの中身を見て確認した.
cxcore.hの代わりにインクルードすべきヘッダファイル

#include "opencv2/core/core_c.h"
#include "opencv2/core/core.hpp"

cv.hの代わりにインクルードすべきヘッダファイル

#include "opencv2/imgproc/imgproc_c.h"
#include "opencv2/imgproc/imgproc.hpp"
#include "opencv2/video/tracking.hpp"
#include "opencv2/features2d/features2d.hpp"
#include "opencv2/calib3d/calib3d.hpp"
#include "opencv2/objdetect/objdetect.hpp"

イッパイあって分かりにくくなった感じがします.覚えられないのでしばらくcv.hでワーニングを我慢するかcv.hのワーニング消すかしようかなと思います.