2012年7月26日木曜日

小さな芽

この7月は,これまで蒔いた種たちが芽吹きだしたのを
目の当たりにした1ヶ月であった.

いくつかある関連性の無いはずのテーマがそれぞれ
タイミングを同じくして,芽を出し始めた.

これから若い芽を大きく成長させるために,
神経をすり減らす日々がしばらく続くことになるだろう.


種たちは,深く耕した土にまいたつもりだ.
せっかく芽吹きはじめたものを容易に枯らすことはないようにしたい.

振り返ればこの10年で,仕事として作るものが大きく変わった.
この5年間が大きな端境期だったのかもしれない.

それらは既に消え去って再び帰り来ぬものではないのかと
この頃では,そのように思っている.
拠り所にしていたものがなくなることというのは,
急に裸一貫で野外に投げ出されたような心地がして
とても恐ろしいことだが,こだわりを捨てて前に進まねばならない.

新しい付加価値を生み出す未知の領域に踏み出さねば,
盤石だと思っていた足元は,溶けてなくなって奈落の底に落ちていく.
砂のように脆い道だとしても前に進まねば,
今を維持することさえも許されない.

いつの間にか世の中は,ずぶんと厳しくなったものだ.
寄りかかるべき大樹だと思っていたら,
中身が腐って倒れそうだという話があちこちから聞こえてくる.

たとえ小さな芽であっても大地に根を張り巡らし,
スクっと立ちつづけていたいものだ.

有島武郎 「小さき者へ」 小さい自分に勇気をくれる名著の一つ

2012年7月3日火曜日

「あめる」

もう2012年の半分は終わってしまったと思うと
残念な気分になってくるようで,何事もなかったという
安心感も入り混じり気持ちは複雑に対流していく.


過ぎていった時間を迎えたときは,
来る未来の姿を恐れていたのに,
過ぎて行った時間を振り返るときは,
そんなことも忘れ感情が揺らぐこともないから
きっと私は想像力が乏しいのかもしれない.

7月になって,いよいよ岩手も暑くなってきた.

昨日も半袖シャツを着て仕事をしていたが,
じっと座ってパソコンを打っているだけなのに蒸し暑さを感じた.

暑くなってくると食べ物の傷むのが気になってくる.
冷蔵庫に入れ忘れた食べ物に気を使わねばならない.

岩手の北の方では,食べ物が腐ることを「あめる」という.
私のカミさんが「あめる」というたび,今でもぎこちなさを
感じながらも,「あめる」という言葉の響きに,
なんとなく腐敗のイメージが繋がるから不思議だ.
きっと「あめる」という言葉は「擬態語」に違いないと思っている.

どうやら食べられないものには「あめる」を,あまり使わないようだ.
本当は食べられたものなんだけど,腐敗させてしまったという,
腐敗した対象への特別な気持ちを表現するために,
無意識に使い分けているんじゃなかろうか.