2010年12月30日木曜日

言葉を書き残す願望とそれをかなえるデバイス

年の瀬の慌ただしさの中,念願だったキングジムのポメラDM20をようやく手に入れることができました。
そこで今回はポメラを使いながら書いたメモ書をアップしてみることにします。この文章自体ポメラで入力したものです。
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句読点のデフォルト設定はどのようにして切り替えるのだろう?
自分は技術文書を書くことが多いので「。」とか「、」ではなく「.」や「,」がいい。
句読点のデフォルトを切り替えることができないのだとしたらとても残念なことだ。
だが調べてみるとやはり変更することはできないみたい。
入力後に変換して句読点からコンマへと変える必要がある.
今後ファームのアップデートなどでぜひ対応してほしい点である。

仕事ではemacsをよく使うのでポメラのショートカットをemacsライクにできる選択があれば個人的にうれしい。

スペースキーの高さが低くて親指の横で押すには苦しい感じがする。いつも右手の親指の側面で打つ癖がついているからキーの高さが低いといつもよりも余計に親指を移動させる必要があるからだろう。

付箋文の取り扱いにもまだなれていない。
そしてやはり句読点を入れるたびに丸がでるとがっかりするのだ。
タイムスタンプを入れたときに自動改行されればちょっとうれしい。
タイムスタンプを打つような時って行の途中に入れることよりも1つの独立した行にタイムスタンプだけを残しておきたい場合が多いと思うのだ。

制御文字を表示する設定にしていたがやっぱりやめることにする。
改行が表示されたところでうれしいことはない。そればかりか目障りに思ってきた。

付箋文による付箋検索機能というのは文字検索とどのように違うのだろうか?付箋文を挿入した場所を別途保持するメモリーを持っているとは思えないので文字列検索をしているだけなのではないか。このようなマニアックな製品のマニュアルでは機能が働く仕組みまである程度解説してもよいのではなかろうか?

キーストロークは予想より深そうだ。
それにもかかわらずスペースキーの入力がしにくい原因は、キーボードの縁のフレームの高さがキーのしずみ込んだときの高さと同じであることに起因すると思われる。
デスクトップPCのスペースキーを横から眺めてみるとキーを押した状態にしてもキートップはキーボードの縁の高さよりもはるかに出っ張った状態になる。一方のポメラはスペースキーを押すと縁のフレーム部分とほぼ同じ高さになるのだ。だから手前斜めの位置から親指の側面でスペースキーをたたこうとするとスペースキーが完全に沈み込む前にキーボードの縁に当たってスペースキーは中半端にしか打ち込まれず不安定な入力になりがちだ。角張ったキーボード手前の縁を削って斜めにすればもっと入力はしやすくなりそうだ。あるいは手前の縁のスペースをもう少し狭くするだけで入力のしやすさはかなり改善されるのではなかろうか?

ポメラを使っていて思い出すのは約20年ほど前にPC98で動いていたP1EXEとかMIFESといったDOS時代の定番ソフトだ。単純明快な画面構成とシンプルなレイアウトが昔を彷彿とさせる。あの時代の良さは画面にでるアプリケーションはただ一つであって、心を騒がせるようなネットの情報もなく実行している唯一のアプリケーションソフトに集中することができた。あることをやっていて別なことをするためには今作業していたアプリケーションを終わらせる決断をする必要があった。現在はどうかといえば、エクセルやワード、パワーポイントを次々に開きながら複数のドキュメントを渡り歩きながら、メールをチェックしブラウザにニュースを追う。あらゆることが同時にこなせているかのような錯覚を人にもたらすが、仕事の効率は果たしてDOS時代よりも向上しているだろうか?文章を作るという仕事に限れば、効率が落ちているのではないかと私は思う。

ポメラの単純さは、現代人の陥りがちなマルチタスクへの幻想から目覚めさせてくれるきっかけとなるように思う。
実際に文章を書く作業をパソコンではなくポメラで行ってみると、短時間のうちに長文を書いている自分に気づいた。それしかできない機械に向き合っているとパソコンを使っている間にありがちな雑念が不思議とわいてこない。向き合う機械でできることとできないことを無意識の中でも分別して雑念を意識の上に沸き立たせているのではないかとさえ思う。
使える状態になるまでの時間がとても短いのもいい。使いたいと思ったそのときにすぐ起動する手軽さは、万能性と引き替えに遅くなったパソコンと対照的だ。パソコンでもレジューム・サスペンドを使えば素早く起動するかもしれないが、大抵は起動したあとに文章を書くためのアプリを起動するか、その前にネットブラウザを立ち上げる誘惑と戦わねばなるまい。
また電池寿命を気にせず使えることも大きい。一時期、私はスマートフォンにモバイルキーボードを組み合わせて使うことも検討したことがあったが電池寿命の悪さを思い知らされあきらめた。文章を書くには文章を書く以外に気になることがない方がいい。電池寿命のインジケーターを気にしながらキーボードを叩くなんてことはそもそもありえない。そんなことをするくらいなら書かない方がいいと思ってしまう。
やりたいことがあり、それを行う手段があっても手段そのものにストレスがあるなら、やる気がそがれてしまうのだ。ポメラは文章を書きたいと思っている人に紙とペンと同じくらい気楽な環境を提供してくれるものであると思うのだ。

ポメラの液晶はバックライトこそ入っていないがとてもクリアだ。15年前にあった日本語ワープロの液晶と比較しても表示スピードが圧倒的に速い。モノクロディスプレーといえども時代の進歩を感じさせる。
1つ1つのドットがクリアだから文字を小さく表示させても読みやすい。ただし視野角が非常に広いので新幹線の中など隣の座席の人から容易に読めるだろう。恥ずかしい文章を人目にさらしたくないと思えばブラインドシートなどを貼ったほうが良さそうだ。

漢字変換について酷評しているコメントを何度か目にしたが、予想よりしっかりした変換性能だと感じた。ただ使用頻度の低い熟語の語彙は貧弱なようである。私の印象としてはMSIMEよりはマシだという程度のレベルではないだろうか。

SDカードを挿入してから1度だけ電源をOFFするときにハングアップした。現象としては電源OFF時のメッセージ画面が何時までも表示されたままとなり永遠に終わらない.仕方なくリセットボタンを押して復帰させた.
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小説を買いてみたいと長年思ってきた。特に才能があるとも思えないのだけど文章を書くことが好きで自分の書いた言葉を人に読んでもらいたいという願望が強いのだと思う。それは自分を知ってもらいたいとの意識が源泉となっていて自分がここにあるということを証明したいという思いにつながるのではないかと思ったりする。
人の命には限りがあって36歳にもなり親交のあった人との別れをいく度か経験しはじめた。
死に別れた人の生前語った言葉は残された私たちの心に残って、死別した後もなお私たちに語りかけるということを知った。人の語る言葉は他の人の心をすみかとしてその人の心に自分の分身ともいうべき魂となって乗り移るのだ。昔の人はこれを言霊といったのだろう。なんともうまい表現だと感心する。
だからという訳でもないが、私は少しでも多くの言葉を残したいと思うのだ。やがて自分も死ぬだろう。病に伏して死ぬかもしれないし事故で突然死ぬかもしれない。ただ死ぬ間際というのは生命力の衰えた肉体にうろたえる弱った自分の意識があるに違いないと想像する。そして元気なうちにこの世に自分の足跡をもっと残しておけばよかったと後悔しているような気がするのだ。心のどこかでこの世に一番効果的な足跡を残す方法というのは文章を残すことだと堅く信じている自分がある。
ところが、いざペンを握ったりパソコンを前にすると何も書くことが思い浮かばない。さあ書こうという環境や姿勢を整えた瞬間に書きたいという気持ちがさめてしまうのだ。そんなものは怠慢だと言われればそれまでなのだが、どうにかしてそれを克服し目的を達成したいと常々思っていた。そこにポメラが登場した。ポメラは起動時間が極めて短く、いつでも何処でも文章を思うまま迅速に入力でき、電源を気にする必要のない夢のような文章入力デバイスであると思う。使ってみた感じ買う前の想像通りであったと言っていい。気の向くままに文章を書くことができることの効能はそれを手に入れてからじゃないと分からないことだ。そんなものがなくてもペンと紙があれば文章を書けるだろうと言う人もいるだろう。しかし紙に書いた文章は管理が難しい。多数の文章を永続的に保管することは難しいし不特定多数の人に呼んでもらうためには、さらに一手間かけねばならない。だから今更手書きで文章を書き記す気にはならない。パソコンを使えば何でもできるのだが何でもできることと引き替えに集中力に欠くのだ。
ネットにもつながらずゲームもできないポメラでできることは唯一、文章を書くこと。向き合う時間がすべて目的に費やされるのがいい。パソコンが万能性を発揮することがそれを操る人間の幸福に寄与するかと言えばそうともいえない。何でもできる代わりに操作する人の目的意識の強さが生み出す成果の完成度に大きく影響する。たくさんのウインドウを同時に表示することができても人が見ることができるのは常に1つだ。ウインドウから別のウインドウに視線をずらすたび記憶のフラグメンテーションが仕事の効率を落としているような気がしてならない。
これから私はポメラを片手に少しでも多くの言葉を書き残せたらと願っている.