2010年3月19日金曜日

イルカと食事

日本人によるイルカの屠殺を批評するコーブという映画がアメリカのアカデミー賞をとったことが話題になっている.

もともとアカデミー賞自体、クローズドな評価体制の中で勝手に賞をあげているものだから何を選ぼうと興味もないところだが、コーブの監督のインタビュー記事が気なった.

イルカ映画「ザ・コーヴ」監督の最大の矛盾とは何か

監督の主張は、「高い知能を持っているイルカを食べることは問題だ」ということらしい.

イルカが高い知能を持っているかどうか私は知らない.

そもそも私はイルカを食べたこともない.

もし、居酒屋でイルカ料理が出たら興味本位で食べることはあるかもしれないが積極的食べようとは思わない立場の日本人だ.

しかし、コーブの監督の主張は、なんとなく気に入らない.

仮にイルカの知能が高いとしてそれを食することに如何なる問題があるのだろう.

先程のリンク先で解説者が論ずるように、知能が高いからといって食べることに関する道徳上の問題を導出可能とは私も思わない.

そもそも食べる対象の知能に関して我々がどれだけ認知しているのかさえ疑問だ.

彼らが屠殺を容認する牛や豚も最近の研究により予想以上に知能が高いことがわかってきたという話もある.

以前 私が英国人と2・3年仕事をしていたときのことだ.

居酒屋で馬刺しを注文した私を、彼女は睨みつけてこう言った.「なぜ 他に食べ物があるのに わざわざ馬を食べるのだ?」

それに対する私の答えは単純だった「うまいからだ」

コーブの監督の主張は、これに通ずるものがあるように感ずる.

他に食べ物があるのに、わざわざ人に懐く愛らしいイルカを食べることに抵抗感を持っているのだろうと思う.

その抵抗感を単純に訴えるならば、分からないでもないが、知能指数うんたらを出して偉そうに話すからワケが分からないのだ.

犬や猫を食べる国の話を聞いたことがあるが、この風習に私は嫌悪感を感じる.コーブの監督は犬も食べないだろうから犬猫に関してその点は監督に同意できるのだ.

我々になつく動物を殺すのは心の痛みが伴う.こんな話を聞いたことがある.

よくお祭りなどで 着色したヒヨコを売っているが、これを買った小学生の友人は、マメに世話をし いつかヒヨコは立派なニワトリとなった.

ある日学校が終わり家族と夕食を囲んだとき、その日の晩飯は鍋だった.友人は母親に「この鶏肉すごくおいしいね?」と言ったら、「ああ お前のピーちゃんだよ」といわれて無言で泣きながら完食したそうだ.

育てて自分になついたニワトリのピーちゃんの肉を食べさせてもらって、その引換に私は生きていると考えるならその生命を無駄にはできない.この論理に間違いはないと私も思う.

コーブの監督は屠殺場で殺される牛を見て肉を食べられなくなったそうだが、それは我々の命が他者の痛みと引き換えにある現実を受け入れることができていないことを意味しているのではないか?

知能指数があろうがなかろうが、神経があって痛みを認知しようがしまいが、食べる対象の命をいただいている.我々にできる最大の道徳は、残さず食べることではないか?

コーブの監督は、イルカの命を大切におもうなら、屠殺後に肉となったイルカが食卓に上がって食べられて行く過程に着目するべきだろう.

知能が高いというイルカが痛みを伴って差し出したイルカ肉が残さず食べられたかが、道徳上の最大の問題となると私は思うのである.